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冷凍食品の歩み

今日、冷凍食品は、様々なところで—ご家庭の食卓・学校や病院のお食事そしてレストランやコンビニエンスストアなどで使用され、広く親しまれております。何気ないメニューにも様々なタイプの冷凍食品が使用されていることにきっと驚くことでしょう。素材としての肉や魚そして野菜まで、その多くが冷凍で保管され輸送されます。お菓子やパン生地・果物などなどその種類は凄い数になることでしょう。(詳しくはこちら冷凍食品Wikipediaを参照ください)

こうした冷凍食品の食生活への浸透は、冷凍加工技術の進歩・冷凍輸送・保管技術の進歩、家庭の冷凍スペース増大によると同時に、調理時間の短縮を求める時代の要請でもありました。

確かに冷凍食品の利用拡大には上記の要因は欠かせません。しかしながら一方で冷凍食品に夢と情熱をかけた人々がいたからこそ今日があることを忘れてはいけないと思います。明治フードは、1969年、昭和44年に創業しましたが、時代はまさに冷凍食品の勃興期でした。冷凍食品の開発と販売を熱く語り、行動する秀でた方々が輩出された時代でした。ここでは、そうした方々の中で特に弊社と縁の深い方の対談集を掲載させていただきます。出典は、冷凍食品新聞社平成元年刊「証言・昭和の冷凍食品 冷食事始」から転載させていただきました。長文になります。最初に、加ト吉三宅孝夫専務取締役の対談です。

革命的なエビフライ

三宅孝夫

-加ト吉ブランドの商品を手がけられた頃のお話を。

三宅 加ト吉ブランドとしてのコック印ができたのが昭和三十九年の秋です。それまでは日本冷蔵(現ニチレイ)の下請けをしていましたから加ト吉ブランドの商品を売る一番最初の売手でした。冷凍食品を売るのは私一人でした。商品は当時の赤エビフライを持って行くことから始まったのですが、市販用ということではすでに大手水産会社が昭和三十八、九年に参入していて、ほとんど失敗していた。というのはその当時は受皿がなかったということ。市販用を出しても冷蔵庫がないという時代でしたから市販用に出して売れる訳がない、ということで業務用に流れていったという状況でしたね。そこで業務用の学校給食を主体に販売に入ったのですが、栄養士の人達の「冷凍食品とは何ですか」から入る訳ですよ。冷凍食品を知らないのですからね。それで冷凍食品を説明し、栄養士の人達から学校給食でなにに困っているか、どんな商品が欲しいか-などを聞きながら、冷凍食品のメリットはこんなものもあるなどといったことを話しながら進めるんですが、話し合って作るんだから必ず売れるんだね。当然、商品開発が営業の仕事だった。

当時作った魚介類の全てが今日の加ト吉の製品の主流になっているといえますね。売りに行って作る。自分でも作って売りに行くという形でね。そういうことから入って四国から始まって中国地方に伸ばして九州に行くということで広げて、そんなことをやっているうちに部下ができました。始めてから二~三年たってからですかね。その当時は、朝駆け夜討ということで平均して三時間位しか眠れなかった時代で、配送もし営業もしまた末端に行って説明会も開かなければいけないなど一人でやっていて、そんなことを続けていると体がもたない。限界だなあ、と思っているうちに部下ができたという次第だね。それで部下に四国を任し、中国を任して行き、そんなことで沖縄から北海道まで要するに加ト吉の錐の先といったら何ですが、そんな仕方をしてきたといえますね。切り拓いていった後に人を貼りつけて行って、気がついてみたら営業部が何百人になっていたということです。

-加藤義和会長のことを書かれた本を見ますと関西地区で三宅専務を一緒に売場をみて回ったというくだりがありますが。

三宅 当時私は営業課長でしたから、当然関西地区では中村博一商店さん、かね正さんなどにも売りに行っている訳ですよ。だけど会長がうちの商品が、あそこにも並んでいない、ここにも並んでいないというんだよ。あの時はまいったね。それが四十三年頃で加ト吉が市販用に入った、というより業界が本格的に市販用に入った時代といえるだろうと思いますよ。ちょうど灘神戸生協が冷食を始める頃でしたね、それが市販用の始まりといって良いと思いますよ。それからダイエーが次々と店舗展開する関東進出を含めての展開の中で、冷凍食品が目玉商品として使われ、売場には最大の時は百五十尺をいう時代がきたのです。四十四、五年頃に百五十尺をいう尺数をちられると、商品を作ってもショーケースはうまらないのですよ、それにメーカーが少なく、やっているメーカーはニチレイ、大洋、日水、日魯と当社位で、それも冷食課といったような本格的なセクションを設けているのはニチレイ位で、あとは本当に限られたメンバーでやっていたに過ぎない時でした。

それだけの伸びをすると、メーカーの場合は作る工場がいるわけですから、そんなにどんどん工場が出来るわけではないので、毎日残業しても間に合いませんので、市販用の商品は何時も品切れの状態でした。例えば、えびコロッケの場合など学校給食、工場給食は切らせないので、市販用を終始切らしていたところ、日本水産のチビコロッケなどが出てきて、それが日水のヒット商品になったという訳。コロッケも俵型のものを出していましたし、この俵型というのは当社が一番最初でしたね。次に小判型を出した-。これはオイルショックの時に深刻でしてね。工場の稼働率をあげなければいけないということで、どのメーカーも苦労していましたし、私のところでも新工場が二つふえた時でしたので、何とか稼働しなければならない。それで何をやるかということで、値段が安くてうまいものは何かということを一生懸命考えて、コロッケしかないということになったのです。それに当時は、うちの商品は相場商品が多かったのですが、総売上げの中にエビフライなどが七〇%位占めていたし、ポストエビフライで安定しているものを、ということでコロッケになったのです。

-さきほど相談しながら話し合いながら商品を作ったと言われましたが、市販用の場合はどうだったのでしょうか。

三宅 市販用の場合も、珍しい珍しいといわれるのですが、作れば売れたんですよ。いまいったように売場がどんどんふえるしダイエーさんが全国展開の中で冷凍食品を広げた。だから現在の市販用冷食はダイエーさんが作ったといえると思いますよ。プライスリーダーということでなくて、今の冷凍食品の位置付けを作ったというか、市販用草分けであったことは間違いないと思うね。今、次の時代の冷食はどうあるべきかを打出せるスーパーもなく、メーカーもないし問屋もないしみな試行錯誤している、というのが実情ではないかと思いますね。

-これまで当初販売に携わった方のお話では、まさに苦労の連続、七転八倒して売ったという印象ですが。

三宅 七転八倒して売ったというのは、今みたいに売るということが苦しい、ということでなくて、当時年間六〇%伸びているという状況ですからシェア獲得競争も、一種の時間労働ということになり、あの若さだからできたと思いますね。あの当時は平均して三時間しか眠っていなかったし、日曜日もなかったですね。だから体力が勝負だったと思います。いまは知脳的な動きをしなければならない上に、体力も必要という大変な時代に入ったといえますが、当時は体力でしたね。その意味では今の方がはるかに「営業」ということではきついと思いますよ。その頃は並べれば売れる-ということでしたし、もっとも並べるまでは大変でしたがね。ダイエーさんのお蔭というのではないが、市販用が全国普及の波状効果としての震源地であったということに間違いないと思いますよ。品揃えが勝負-という売り方がスーパーの売り方ですから当然、冷凍食品はそれまでは見たこともないですからね。そこに百五十尺のショーケースを作って入れていくのですから何でも凍らしてみようという時代ですよ。「こんなものが冷凍食品である」、「こんなものもあるわ」-といった物珍しさというのが冷凍食品でしたから。そんな時代だったんじゃないですかね。物珍しさの時代からその次の時代が簡便性の時代になった。いかに合理的で簡便な商品であるかということでこれまで来た-と思いますよ。

それじゃこれからどうなるか、と申しますと、物珍しいのは終わった。簡便性は当然の時代で、そこに本物志向として冷凍食品というものが問われる、ということになると思います。もちろん、簡便性も必要ですよ。安いということも必要でしょう、おいしい-ということも。そういった総合的なトータルの中で、他の売場のものに比べてどれだけお客さんのニーズに応えているか、ということですね。どれだけお客さんに認知度があるかということですよ。例えば、一般食品問屋などに行ってみますと、(冷凍食品以外の)一般の物資を扱っている部署では少々なまけても売上げの落ちというのはあまりはっきり判らない、というのですね。リピートがキチンとしているからです。だけど冷凍食品だけははっきりする。サボった必ず売上げは落ちる、売上げが落ちたとすると必ずサボっているということがいえます。そういう意味から体力の勝負、冷凍食品は情熱の勝負といわれている所以でなかろうかと思いますよ。

-話は元に戻りますが、そのように全国津々浦々回わられた訳ですが、現役の方でそのような方は今いらっしゃいますか。

三宅 現役でね。業務用では牛島さん(ヤヨイ食品の常務取締役、牛島洋平氏)位でしょうか。市販用ではいないのではないですか。ただ、最初の時から冷凍食品は将来の食品になると思っていましたからね。最初の時はみな自分でしなければいけなかったですから大変だったですよ。何処に売りに行けば良いのですか-自分で考えろ。商品がない-自分で考えろ。と何でも自分で考えなければいけなかった。そういうことの繰返しでした。

最初のうちは判らないことばかりでした。そのうちに(加ト吉に)柳さん(元日本冷蔵研究室勤務・シュガーレディ技術顧問柳定義氏)が来られて教わりましたね。(売りに)行って判らないところは帰って柳さんに聞いてまた行くということで、柳さんが居られたということは正しく末端に冷凍食品というものを指導されたと思っています。それは加ト吉という意味でなくてね。自信が出てきたのは昭和四十三年頃でしょうかね。加ト吉は日本一のメーカーになれる、という感触を持ちました。

-それを実現させた加ト吉のヒット商品というものはどんなものがありましたか。

三宅 それは赤エビフライでしょうね。これは日本冷蔵、日本水産、大洋漁業、日魯漁業など全部やりましたから。これは加ト吉だけでなく冷凍食品そのものの草分けじゃないでしょうか。商材としてね。昭和三十九年にコック印ブランドでしたが、市販用がうまく行き出してから加ト吉を前に出すということで加ト吉ちゃんのブランドを使うようになったのは昭和四十四、五年じゃないかと思います。

厳しいと思ったのは毎週、月曜日はどの方面、火曜日は高知方面とスケジュールコースを作る訳ですが、注文は自分で取って自分で積んで二~三時間走る訳で、それで着いたら逆なことをやって、帰り着くまでの時間を同行販売して帰ってくると、帰り着くのは夜の十二時過ぎは普通で遅い時は早朝二~三時でしたね。広島などへ行くフェリーの最終便が夜九時半なんですよ。それで帰ると着くのが二時位になる訳ですが、それを逃すと朝の五時になるんですよ。冬なんか暖房はないし寒くて眠っていられないから、仕方ないので岡山まで走るんですよ。それで回ると朝の四時か五時に着くんですが、そういうことがしょっちゅうでしたよ。

今では泊るということが前提にあるんですが、当時はスケジュール上、泊るということは考えられず「日帰り」ということで、その仕事の流れでやってきた結果が、いまフローズンタウンとして本社直送便、問屋直送体制というものになったといえますね。

-さきほど体力の勝負だったと言われましたが、そのような中から今日の加ト吉がある訳ですね。

三宅 フローズンタウンも汗と体力の結晶です。あれが加ト吉を支えている源泉ですよ。夜も眠らないで車で走って、問屋へ直送ということをやってきて、体力の限界を感じるまでやったということですね。その体力が続かないと感じた時に社員(営業マン)が三人きた。それでお前は香川をやれ、高知をやれ―といって仕事を分けた。だから、苦労といっても今いう苦労とは中身が違う。今の人達にあれと同じことをやれといってもやれませんね。私は小さい時から体力を鍛えていて、鍛えた体力があったからできたと思いますよ。

その頃はこんなこともありましたよ。ほら、居眠り運転というものはこっちの方が揺れると思うでしょ。酒に酔うと体がふらつき揺れるでしょ。ところが車の居眠り運転だと道路の方が寄ってくるんですよ。こっちの方が揺れていると思わないんですね。道の中央線や家の電柱が寄ってくるという感じでね。本当に良く事故を起こさなかったと思うね。もっとも当時は車も少なかったこともありますが。こんなことをいってはいけないのだが国道を走る時はアクセルを踏まなくても良いように石をのせて走らせたこともありました。そんなに車が少なかったということですね。最初のころ、また、東京にきてからもそうだったのですが、東京で三二%のシェアをとった時はもう酒を飲んでいても何をしていても仕事の話以外はしなかった。もう仕事一途、仕事ばっかりだという気がする。自分でも仕事に憑かれていたという感じだったね。

-その頃特に強烈な印象といったものを話して下さい。

三宅 東京の時代にソフトエビフライ、大エビフライを作ったのですが、当時は冷凍食品の売値は百二十円だった。一般の冷凍食品の売値がそうだった。そんな時に大エビフライを二百六十円で、ソフトエビフライを二百四十円で出したのです。その時に云われましたよ。いま冷凍食品の業界は価格が百二十円でないと売れない。それを二百四十円、二百六十円で出すのは間違いじゃないかと。まして当時の赤エビフライは二十二尾で百二十円。それが六尾で二百六十円で出しては売れる筈がない、と云われましたね。だから、東京地区では赤エビフライの販売をストップしました。その中止した赤エビフライの売場に大エビフライとソフトエビフライを置いたのです。それで初めてエビフライの本格化といえるものが出てきた。エビフライの革命的なことでしたね。これで加ト吉のエビフライの市場が確立できた。その時、これが本当のエビフライだというものが売れなければこれから冷凍食品というものはありえないと思った。それが四十六年頃だったと思います。自分にとっても加ト吉にとっても大勝負だったと思いますが内心は大へんなものがありましたよ。

カキフライにしても何故加ト吉のカキフライが強くなったかというと、あの頃瀬戸内海に水銀汚染問題が出ていて、カキフライにも怖れがあると新聞に書かれた。それで各メーカーはいっせいに生産を半減するということをやった。当時、東京で七~八割を売っていたのですが、広島県の知事が絶対大丈夫だという保証をしているからと、最高のものを作らした。それが加ト吉のものは良いということで倍々になっていったのですよ。自分がカキフライが好きなものだから、美味しさを常に追求しましたし、そのためには、製造方法も何度も変えながら差別化を進めた結果がシェアー四八%になっておりました。カキフライは嗜好商品だとつくづく思いましたね。

コロッケと冷凍麺の製造、また東京進出や上場の問題などいろいろと思い出があるのですがね。まあ、二十三年も冷食をやっているといろいろありますが・・・。

-専務のお話を伺っていると、冷凍食品に対しては不安などを全然お感じになっていないという印象ですが、それは四十年代という時代のせいでしょうか。

三宅 いや、それは最初の一年間位は不安でした。売り先が判らない。冷凍食品をどうやって説明して良いか判らないということで心配したし、不安でしたよ。その当時はまだ冷凍食品は知られていなかったですからね。商品について、車の運転をしながらも、また他のことをしていても「あれは冷凍食品にならないか、これはどうだとう」と常に考えていましたし、食堂で食べたものが、見たものが冷凍食品にならないか考えていたのだから。もう家庭生活とか、家庭サービスをいったものは関係なしですよ。冷凍食品以外の事は一切考えない一種の冷食馬鹿が命をかけて冷凍食品業界というレールの上を必死になって全速力で走った。そんな時代でしたね。正に、市販冷食の勃興期を汗と体力で走った感じですね。

 

三宅孝夫氏の略歴

三宅孝夫氏は昭和十三年七月、香川県観音寺市生まれ。昭和三十二年香川県立観音寺第一高等学校卒業後、プロ野球の西鉄ライオンズに入団、昭和四十年四月加ト吉入社。入社時から加ト吉の冷食、コック印ブランドの冷食を販売、加ト吉の最初の営業マンとして活躍、今日の加ト吉を築いた功労者の一人。現在、同社専務取締役。

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